東日本大震災:前編

東日本大震災から6年ですね。 あれからもう6年も経ったのか、と思うと同時についこないだのように感じます。

 

今だから書ける当時の状況を改めて書こうかと。

 

2011年2月1日から転勤で京都から東京に引越しし、生活も1ヶ月ほど経って少しずつ

慣れてきた3月11日、いつも通り東京駅から徒歩10分ほどの事務所に出勤。

 

昼ご飯も食べて午後の仕事を頑張ってた時、カタカタ揺れだした。

「あ、揺れた」と思った瞬間大きな揺れが来た。

 

机の下にもぐるとか、窓を開けるとか、非常扉を開けて万が一建物が歪んでも脱出できるようにとかそんな余裕はなく

オフィスの椅子に座ったままデスクにしがみつくのが精一杯。

 

しかも、ビルが1フロア20㎡しかない細いビルなのに11Fまであり、自分の会社のオフィスが9Fでビル自体が倒れてしまうと思うぐらいの揺れで、正直死ぬ覚悟してた。

 

どれぐらい揺れたのか、というのは表現するのは難しいけど、例えるなら

 

「トランポリンの上に座ってて隣で誰かが激しく跳ねてる」

 

んー、表現が違うかもしれないけど、とにかく立つ事ができないぐらいの揺れ。

変に窓とか開けに行くとその揺れで窓から放り出されそう。

しかも揺れが長くて1分以上は続いてたような気がする。

 

幸い、事務所にはロッカーが1つあるぐらいで倒れてくる物とかはなかったけど

事務所のいろんな物が辺りに飛び散ってぐちゃぐちゃ。

 

いったん揺れが治まったところで同僚と非常階段で1Fまで降りようとするが

外付けの非常階段で余震が来て非常階段も大きく揺れて降りるのも命がけ。

そんな状態でなんとか1Fまで降りてビルの外にでると多くの人でごった返してた。

 

外に出ても余震は続き、自分がさっきまでいたビルも揺れるのがよくわかる。

地震で建物が揺れるのを見るのは初めてで、恐怖そのもの。

 

ふと、となりのビルを見ると大きなビルの窓ガラスがたくさん割れてて道路に破片が飛び散り非常に危険な状況。

周りはパニック状態で大混乱。

ビル下のコンビニに行くと長蛇の列でカップラーメンを買い物カゴに大量に入れてるOLとか。

そんな状況でもフル稼働で動いてたコンビニの店員さんがちょっと可哀想だったのをよく覚えている。

 

さて、もちろん携帯電話も全く繋がらない状態で京都の本社にも連絡が取れず。

ちょっと治まって来たので9Fの事務所に戻り、内線で状況を説明して仕事できない状態を報告。

 

ただ、京都の本社は当時そこまで酷い状況というのを理解してもらえないので苦労した。

こっちは命かかってるのでとりあえず仕事よりも自分の命最優先(当たり前だけど)で行動した。

と言っても電車は全てストップ、道路も大渋滞でけっきょくは事務所にいるしかないのだけど。

 

なんとか情報を仕入れたくても事務所にテレビもラジオもないので情報源はインターネット。

運よく事務所は電気とネットは繋がってたので仕事せずにひたすら情報収集に励む。

 

何分おきに余震が来るので神経は極限状態。

夕方になり、ネットでテレビ放送が流れて津波の映像に絶句。

これが現実に起きてるなんて実際の映像を見ても信じられなかった。

 

そして30分間隔ぐらいで出る緊急地震速報、あのトラウマになる警告音。

それが表示されるたびに9Fから1Fに非常階段で降りては登るを繰り返す。

同僚は実家が千葉県という事でかなり深刻な状況らしく、知人を通じて車で実家まで帰った。

 

ここからは事務所で一人で、ビルのセキュリティが高いのが仇になったかビルの1Fで認証カードを通さないとそのフロアにエレベーターで行けないという仕様になってるので何かあっても助けを呼べないという。

 

そんな極限状態で時間はもう夜の8時を超えた。

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